障害と難病を抱えながら事業(弁当店)をやって辞めるまで② ~社員へ破産を伝える~

閉店の約1週間前「9月30日をもって閉店する」と社員全員の前で伝えた。
自己破産を含めての法人破産手続きをすることを弁護士同席の元で伝えた。

社員との間に最悪の亀裂を招くかもしれなかったが、9月30日の閉店日まで、
しこりを抱きながらも伴に最後までお客様のために支えてくれると信じ伝えた。
30日までは、弁当を届けるという絆はたもてると信じて。

 

閉店の数日前。

社員でもあり前代表のお嫁さんと、関係先への挨拶回りの車中で2年間を振り返って話した。

お嫁さんは「うちの母に騙されたね」と言った。
法人になってから事業継承前の5期分の決算書を見、社内の人間関係を見て、塩釜の街への愛着も沸いて、元代表からは語られなかった事業継承までの経営実態をお嫁さんから話してもらっていたので、その真意は手に取るように理解できた。
お嫁さんはお嫁さんで、前代表と一つ屋根の下で暮らし、店のオープンからの歴史、お財布事情に至るまで知り尽くしての言葉だったと思う。

「うちの母に騙されたね」確かに騙されたと言えばそうなのかも知れないが、
事業継承をする際に覚悟してので、そうは思わなかった。
思わなかったが「必要であるはずの事を話してもらえなかった」と言った。
恨しみになることは言いたくなかったから「話してもらえなかった」と言った。

2014年11月7日に事業継承の契約を取り交わした。
契約の数日前、社員Aさんより「9月の未払い給与は払ってもらえるのか」と聞かれた。
もちろん、元代表をはじめ、事業継承に携わっていた商工会議所の方、中小企業診断士の方からは聞いてはない。
事業継承する前から、すでに眠れない日を過ごすことになっていた。

読んでる人からしたら、呆れて物も言えない。と言われる事だと思う。
契約を中止するなり延期にするなりをすれば良かったのだろうとも言われるはずだが、このスタートも含めての2年間は、「神さまから授かった運命」と、お嫁さんと、そんな話しもした。※後々、書こうと思う。

実は、元代表から話してもらえなかった経営上のことは、これだけではないのである。
「騙された」というより、説明義務違反にあたるようなことが、社員さんとの関係を築く中で話しを聞くことになっていくのです。

続きは③へ。

障害と難病を抱えながら事業(弁当店)をやって辞めるまで① ~序章~

振り返りの記録として、弁当店の事を書くことには
相当の迷いがあり今でも正直迷いながら書き始めています。

迷いがあるのは、当時の取引先や金融機関をはじめ関係者ならび
お客さんへ、多大な迷惑かけてしまったからに他なりません。

辞めた後、Facebookへの投稿をしていても、ご迷惑をおかけした
方々からしたら「おまえが言うな」という気持ちかも知れませんが、
世捨て人、廃人へと身を落としてしまっては、迷惑をおかけした方々、
又たずさわり応援してくれた方へ、申し訳も立たず、悲しい思いを
してもらいたくないと思い、愚直に投稿をさせてもらっています。

さて、書くことを決めた理由は主に2つです。
一つめは、事実を記録し忘れないようにするため、
二つめは、お詫びをしていくためと反面教師としてみてもらうためです。

次回から、障害、難病を持って、なぜ事業を引き継いだのか、
そして、辞めるに至った経緯を書き残こしていきたいと思います。

障害者と健常者の壁を取り払うことは可能なのか?

障害者運動が1960年代あたりから活発になり、今から30年~20年くらい前になると障害者の就労への活動が盛んになっていった。

しかし、その頃は障害者たちが主体ではなかった。

神戸のプロップステーション
東京の東京コロニー。
大分の太陽の家。など。

パソコンと障害者の就労を結びつける試みがでてきた。
行政のHP作成を、障害者へ外注するなどといった障害者のITスキルを上げる事が主流になった。
Micro〇〇ftも、積極的に支援に関わったし、宮城県で言えば、仙台市泉区第三セクターの「テクノプラザ」で、こっそりと障害者の就労講習が行われたりしていた。

宮城県の高校校歌集のHP作成をしたりしてたのは、県民にはほとんど知られる事もなかった。
(家に、当時のHPをCDにしたのが、まだあるはずだけど)

一気に障害者の就労・雇用が進んだのは、間違いなく現LITALICOの誕生に他ならない。
※LITALICO創業直後には「テクノプラザ」とも繋がりがあった。

そして、この後、障害者就労事業所が雨後の竹の子で乱立し今に至っている。
乱立する訳は、まあ、障害者がお金に変わってしまったのだろうと自分はそう捉えている。
(全部の事業所がそうでもないのですが、大半はそうなってしまった)

しかし、障害者の雇用が注目されるようになって、新しい光も出てきたと言うことは、もう一つの希望でもある。

地域のためとか社会のために、活動や起業する人がでてくるようになった。

「浦戸の花物語」の羽生さん、東海市の寝たきり社長など。

readyfor.jp


彼らのような人が、当たり前の社会になった時、もしかすると、障害者と健常者の壁が一気に取り払われる時なのかも知れないと思う。


そして、10月9日(祝)、仙台では「みやぎアピール大行動実行委員会」の行進が行われていた。
私たちはこの街で生きてはいけないの?

※こういう活動を見た人々が、障害者の総意とだけは受け取って欲しくないと思う。


時代は変わってきているのに、自ら壁を作るようなことをまだしているしてると、どうしても感じてしまう。

※勘のいい人はわかると思うのですが、あることに瓜二つなのです。


なにを語りたかったのか、まとまりもなくなってしまったのですが、確実に時代は変わり、障害者でも志をもてば、社会と共存し応援してもらえる時代が来つつあると思っています。

5年後には、再び相模原事件のような出来事が訪れない社会になって欲しいと、選挙公示日前に願うのです。